0_「学生社会運動史」について
「学生社会運動史」について

(田原 俊)


 本書は、黎明期の日本学生運動に参加し、生涯を労働運動の指導者として献身した菊川忠雄によって記された、戦前の日本学生運動の通史です。「満州事変」勃発の年である1931年(昭和6年)に一度中央公論社から出版され、その後若干の増補改定を加えて戦後の1947年(昭和22年)に海口書店から再出版されました。本サイトの「学生社会運動史」は、後者の海口書店版に依っています。
 戦後の日本学生運動史については、「新左翼運動全史」(蔵田計成 著 流動出版 1978)ほか、よく知られたいくつかの参考書籍があります。しかし戦前のそれを詳述した著作は、今日では歴史の底に埋もれてしまった観があります。そこで、著者菊川忠雄の没後50年以上が経過し、その著作権が消滅した現在、戦前の日本学生運動建設の当事者による貴重な資料として、この「学生社会運動史」を少しずつWeb上にUPさせていただくことにします。

 転載に使用した原本の奥付は以下のとおりです。

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 昭和二十二年六月六日印刷
 昭和二十二年六月十日発行
 定価 八十五円

 著 者 菊 川 忠 雄
 発行者 東京都中央区木挽町五ノニ 緑ビル
      海 口 守 三
 印刷者 東京都新宿区市谷加賀町一ノ一ニ
      小 阪 孟
 発行所 東京都中央区木挽町五ノニ 緑ビル
      海 口 書 店
       電話銀座(57)一四五一番
 印刷・大日本印刷株式会社
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 なお、原文に用いられている旧字体は、適宜現代のものに改めています。また今日では馴染みのない漢字の読み仮名などについては【 】内に表記しています。明かな誤植等と思われる部分については中央公論社版と照合し修正しまています。
 わずか60年ほど前の旧漢字が、こんなにややこしいものだとは思いませんでした(笑)。


【付記】
 H・スミスの「新人会の研究」(東京大学出版会 1978)巻末の新人会員名簿に、上記の海口(かいぐち)守三の名が見えます。三高出身、旧姓橋本→田尾→海口と改姓、菊川と同じ1901年生、かつ同じ東大経済学部を、菊川より一年早い1925年に卒業しています。
【2006/05/28 00:00 】
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0_著者菊川忠雄について
著者:菊川忠雄について

 1901(明治34)〜1954(昭和29)
 一高・東大在学中に学生運動を指導、一高社会思想研究会設立、新人会再建・学連(学生社会科学連合会)の結成に活躍。後、戦前・戦後を労働運動の指導者として活動し、社会党から参院議員に当選3回。洞爺丸事件で遭難死。

全労:全国労働組合同盟時代(1930〜34頃)の菊川忠雄 「菊川忠雄 その思想と実践」より


【著書】
学生社会運動史(中央公論社 1931)
労働組合組織論(無産社 1931)
戦争と労働(酒井書店 1940)
産業報国読本(酒井書店 1941)
学生社会運動史(海口書店 1947)

【訳書】
無産者経済地理概論(プレブス・リーグ編 同人社書店 1928)
経済地理概論(プレブス・リーグ編 改造社 改造文庫 1930)

【関連文献】
菊川忠雄 その思想と実践(日本労働組合総同盟菊川忠雄追悼出版委員会編/発行 1956)


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 菊川忠雄は現在、東京都立多磨霊園に眠っています。墓碑銘は次のように記されています。

  一九〇一年愛媛県越智郡波方村に生る
  一高東大を経て日本労働総同盟本部に入り
  全生涯を日本労働運動の指導に捧ぐ
  社会主義運動に於てもその透徹せる理論と
  堅実なる実践を以って
  革新政治勢力の発展に貢献す
  一九五四年九月ニ六日北海道遊説の帰途
  洞爺丸○○【二字不明】の厄に遇い訃る
  享年五三
  衆議院議員日本社会党中央執行委員
  ○【一字不明】書学生社会運動史他


*改行ヶ所および旧漢字は適宜改めています
【2006/05/28 00:00 】
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学生社会運動史 序
菊川忠雄著

学生社会運動史


         

           ○

 本書はさきに昭和六年十月に中央公論社によって出版されたことがあるが、今回は若干の増補改定を加えて、海口書店の手によって新しく出版されることとなった。
 私は第一次世界大戦の直後から学生生活に入り、黎明期の社会運動に参加し、学生社会運動の創設にあたった。学窓を出て労働組合や無産政党の運動に投じてからも、学生社会運動に対する直接間接の関係を保っていた。本書は、この立場と体験の上に立って、学生と社会に対して学生社会運動のよりよき理解のために書かれたものである。けれども、当時は既に学生社会運動は禁圧下にあり、資料収集の上にも想像に余る困難が伴い、記述についても極度の制約が加えられ、本書の後半の部分に至っては折角貴重な資料を手にしながら執筆を断念せねばならなかった。
 今日の如き言論の自由な下に於いて、本書を以って学生社会運動の完全な史的記述とすることについては、私自身大きな不満をもつものであるが、この運動の全ぼうを記述したものとしての資料的価値は今なお失われないものと信ずる。
 私は、この機会に、学生社会運動の本質と発展段階について若干の記述を試みたい。

           ○

 学生社会運動ということは、広義に解釈すれば、学生の立場に於いて行うすべての社会的運動だといえないこともないが、ここにいう学生社会運動はそのような漠然たるものでないことは今更述べる必要はないだろう。
 特に学生社会運動と言われるものは、第一次世界大戦後の大正七年の頃に始まり、その後幾つかの段階を経つつ発展し、昭和七年頃に至って禁圧されるまでの間、前後十数年間を画した特異な社会運動である。これはもとより社会運動の一翼ではあるが、学生自らが近代資本主義社会に於ける無産階級の構成分子であることを自覚し、その社会的地位の向上と解放のために団体運動を組織し活動した点にその特徴がある。
 かかる運動は、嘗ての帝政ロシヤ時代の大学生達の『ブ・ナロード』の運動に見られた如く、青年学徒のもつ純真性と社会的正義感に基づくことはいうまでもない。人生と社会に対する真剣な態度----これが資本主義社会の矛盾に直面して悩み抜き、その解決のために青年学徒は社会運動に身を投じた。しかし、これは主観的要素であって、これだけなれば、小数の社会主義学生は作られても、運動が大衆的組織とはならなかった。

           ○

 学生社会運動を大衆的な規模の上に発展せしめた客観的要素は、実に学生という社会層のもつ矛盾そのものであった。
 元来、学生という社会層は静止的乃至は断面的に観察すれば、労使の階級的構成の埒外に立っている存在であるが、動的に観ればその構成分子は入学、卒業の過程を通じて短期間に新陳代謝し、労使の階級的構成のなかに送り込まれて行くもので『学生はサラリー・マンの卵』と言われる如く、その本質は知能的労働者、無産階級に属する。このことが現実に痛感せられて来たのは、第一次世界大戦後の大正九年に始まった世界恐慌により、わが国資本主義が行詰まりを呈した頃からである。ここに学生層の間には思想的動揺が起こり、社会問題と社会運動に対して無関心であることが出来なくなったのである。
 こうした情勢の推移により、学生社会運動は、大正七年頃から、最初には少数の社会主義的学生グループの運動として発足し、所謂先駆的学生社会運動の段階をなしたが、次第に大衆化の傾向をとり、大正十一年頃から急速に組織を拡大し、学生社会科学連合会の運動として躍進した。

           ○

 学生社会運動は、こうして、社会運動の一翼として立ちながらも学生自身の立場に於いて運動するという特異な運動を展開したが、その躍進途上には早くも弾圧の兆しが現れ、大正十三年秋からはじめられた学生団体に対する禁圧は大正十四年十二月の京大学生事件によって最高潮に達した。しかし、この段階に於ける学生社会運動は大衆的運動としても最高潮に達したが、終に三・一五事件に至って合法性を奪われてしまった。
 この段階は、学生社会運動に於ける指導精神が質的転換を遂げた段階であった。即ち、学生社会運動が従来の如き社会科学運動からマルクス主義に統一せられた時期である。
 これに続く段階は、三・一五事件前後から四・一六事件を経て学生社会運動の発展的解消に至る時期である。学生社会運動は非合法に追い込まれながらも、一時その再建に努力したが、これが指導権を把った共産党に於いては、学生の立場に立つ特異なる運動としての学生社会運動はこれを解消して、直接に党及び共産青年同盟の直接指導下に再編成する方針をとり、昭和四年十一月に至り、学生社会運動団体はそれぞれ発展的解消をとげることとなった。

           ○

 本書が取扱った学生社会運動の記述は、この学生社会運動団体の解体前後までの段階であって、それ以後の共産党及び共産青年同盟の指導下に組織せられた数年間の学生の運動については触れていない。この数年間には、学生生活と学問の研究の自由の上には絶え間ない弾圧があった。それは軍閥の戦争準備の工作の一つに他ならなかった。これに対して、自由主義と社会主義の立場に立つ学生の反対運動はしばしば行われた。その後戦争段階に這入ると共に、学生社会運動は遂に根を断たれ、学生の間には国家主義的運動が残されるのみとなった。これらの段階についても、本書では触れていない。
 これらの嵐の時代の学生社会運動を記述することは私の適任ではない。或いは、この段階の記述は、厳密にはもはや学生社会運動史ではなく、共産党運動史の一部とされるべきではあるまいか。


  昭和二十二年五月
                       著  者
【2006/05/28 15:55 】
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学生社会運動史 目次
学生社会運動史  目 次

第 一 篇

 第一章 社会主義者、労働者、デモクラット・・・・・・・・・・・・・4
  黎明近づく----労働階級の躍進----デモクラシーの台頭----回顧の総決算

 第二章 インテリの黎明(上)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14
  大学が揺らぐ----思想戦の序幕----大学の改革一つ----最初の異端者達----佐野学氏のこと

 第三章 インテリの黎明(下)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27
  赤門の学生たち----京都の労学会----東西両大学連合演説会----早稲田の黎明

 第四章 浪人会と黎明会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・38
  『浪人会を葬れ!』----立会演説会開かる----デモクラシーの凱歌----黎明会の創立----黎明会の内容を見る

 第五章 学生思想団体の誕生と学生デモクラシー運動・・・・・52
  新人会生る----民人同盟会生る----『学生運動のロマンチシズム』----学生普選運動へ!----青年渡邊政之輔氏----『デモクラシー』発刊----新人会の活動----新人セルロイド工組合----インテリの進路?----民人同盟の活動----建設者同盟生る----黎民創生会、一新会、扶信会其他----青年文化同盟の結成

 第六章 『ブ・ナロード』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・74
  『デモクラシー』から『先駆』へ----サンヂカリズムの台頭----『思想界の動乱』----『ブ・ナロード!』----ロシヤのインテリゲンチャ----ブ・ナロードの幻影----『労働者は僕の愛人』----赤旗を守る学生隊

 第七章 社会主義同盟前後(上)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・93
  思想戦線漸く多事----森戸事件の発端----事件の輪郭----森戸事件と学生運動----社会主義同盟への参加

 第八章 社会主義同盟前後(下)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・104
  新人会の消長----新人会の分化----建設者同盟の発展----早大文化会の誕生----其他の学生団体----前期学生運動史終る


第 二 篇

 第一章 ロシヤ飢饉救済運動・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・118
  緩やかな満潮----『ロシヤ飢民を救え』----学生団体の憤起

 第二章 学生大衆漸く動く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・126
  新しい動揺----学生自治運動の萌芽----明大の学校騒動----三高のストライキ----『国家のアンシュタルト』----帝国主義教育の侵入
 第三章 学生連合会とHSLの創立・・・・・・・・・・・・・・・・・138
  学生連合会生る----HSLの結成----当時の学生運動----その思想的背景----動き始めた学生運動

 第四章 学生社会運動の新展開・・・・・・・・・・・・・・・・・・・151
  三悪法反対運動----無産青年運動の萌芽----新人会の復活----学友会改革運動----『凡ての権力を学生大衆へ!』----一校一団体主義の確立----早大軍研事件の発端----『早稲田を軍閥に売るな!』----野次り倒された発会式----軍研反対学生大会----軍事研究団の解散

 第五章 共産党事件と大学擁護運動・・・・・・・・・・・・・・・・171
  第一次共産党事件----大学擁護運動起る----大山郁夫氏の熱弁----学問研究の自由の主張----学生社会科学運動の芽生え

 第六章 関東大震災前後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・183
  帝大学生委員会の活動----サンマーワークと学連有志懇談会----関東大震災中の活動----ロビンフッド事件----社会科学研究会の活況----学生セツルメント運動----新人会の刷新

 第七章 学生社会科学運動の確立(上)・・・・・・・・・・・・・201
  社会運動の一大転回期----学生の普選運動起る----全国学生普選連盟----地方への拡大----学生連合会の整調

 第八章 学生社会科学運動の確立(下)・・・・・・・・・・・・・215
  十三年度の組織勢力----東京連合会の内容----関西連合会の内容----東北連合会の内容----高等学校連盟の充実----其他の地方の会

 第九章 大阪市電争議と学連・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・230
  大阪市電争議と学生----『学生義勇団』のスカップ----学生連合会の抗議----学連と労働団体との提携----今一つの決算

 第十章 学生社会科学運動の理論・・・・・・・・・・・・・・・・245
  『リベツ化』とその危険性----危険性の克服へ!----『研究か実行か』----学生社会科学連合会と改稱----『社会科学』の意義----社会科学運動の根拠----研究会の紹介文の一例----学生運動者の片影

 第十一章 SFSSの対外的進出・・・・・・・・・・・・・・・・・・262
  主なる活動----対米問題批判----労働者教育運動----産労と政研の活動----国際排戦デー----記念講演会

 第十二章 軍事教育反対闘争・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・273
  全国学生軍教反対同盟生る----最初の抗議運動----反対示威運動----校内運動へ転化


第 三 篇

 第一章 高等学校連盟の禁圧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・284
  今は昔の事など----学校当局の取締り協議----禁止の申し合せ----各高校の禁圧振り----暴圧抗議運動----『ケルビンと焔の剣』

 第二章 学生運動の再転換・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・298
  我国社会運動の急旋回----総同盟と評議会の対立----思想団体の動揺----学生運動の左翼化

 第三章 第二回全国大会の諸問題・・・・・・・・・・・・・・・・308
  学連会歌----反動学生団の出現----学連の根本方針確立へ----第二回全国大会開かる----第二回大会テーゼの概要----『学生運動と教育』----京大事件の調書から

 第四章 再転換期の諸運動(上)・・・・・・・・・・・・・・・・・・324
  十四年度の主なる運動----支那罷業批判講演会----無産青年同盟の創立----学生の集会に警官の干渉----労農ロシヤ代表歓迎----政治研究会大会----無産者教育協会設立

 第五章 再転換期の諸運動(下)・・・・・・・・・・・・・・・・・・336
  小樽高商事件の発端----小樽高商学生の激----学連の抗議及運動----都下の全学生奮起す----各大学内の反対運動----福岡高校事件----大衆への戦術確立----学連の組織的勢力

 第六章 京大学生事件前後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・352
  京大事件の発端----京大の全学的奮起----法経学部の声明----冬期四ヶ月の大検挙----予審決定書はいう----イデオロギーの裁判----京大事件の行方----被告学生の闘争

 第七章 自由擁護同盟の闘争・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・372
  暴圧に抗して----学生連合会脱退強要事件----『思想恐怖時代』出現!----学生自由擁護同盟の誕生----自由擁護同盟の闘争進む----警察権の学園進入

 第八章 学生自治運動の展開・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・387
  学生自治運動起る----学生自治運動の方針----自治運動の発展段階----学校行政の反動化----学校の企業化

 第九章 三・一五事件前後(上)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・399
  学生騒動慢性時代前期----東大社会科学独立問題----二高盟休事件----六高ノート教授改善運動其他----早大学生自治機関設立運動----大山教授留任運動の発端----留任運動の経過----早大事件の発展

 第十章 三・一五事件前後(下)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・418
  方向転換の再論----福本主義の台頭----学生運動の影響----学生運動の再転換----学生運動の諸分派----三・一五の弾圧下る!----学生運動の弾圧

 第十一章 三・一五事件の余波・・・・・・・・・・・・・・・・・・・436
  大学に弾圧の嵐----大学の転落!----東大の暴圧反対運動起る----大学本部への示威運動----弾圧下の運動の陣立

 第十二章 四・一六事件前後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・453
  学生自治運動の躍進----学校騒動慢性時代後期----三年後半期の学校騒動----四年度の学校騒動----五年以降の学校騒動----非合法運動への転換----四・一六事件の弾圧----プロレタリアの指導の下に!

附 録  学生社会運動年表
【2006/06/04 22:42 】
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01_01_01_黎明近づく
学生社会運動史


第 一 篇


第一章 社会主義者、労働者、デモクラット


    黎明近づく

 日本に於ける社会主義運動は、明治三十年代に、一時、初期の華やかさを見せたが、その後日清、日露の両役を通じて発展を遂げた日本の資本主義も漸く行詰りの徴候を呈するに至って、労働組合の組織が先づ崩れ、ついで、社会主義運動も屏息のやむなきに至った。こうして、資本の攻勢と労働の退却が加速度的に進行していく矢先に、明治四十三年の夏には、一世を震駭せしめた幸徳秋水氏等の所謂『大逆事件』が起り、社会主義運動に対する政府の弾圧は徹底的となり、労働運動と社会主義運動に対する希望は一時完全に消失した観があった。『労働』とか『社会』とかいう類の文字は、殆ど例外なく、日本の言論文書の世界から抹殺せられた。社会主義者は事毎に処罰投獄せられた。世間は均しく社会運動に対して恐怖を以って接した。
 しかし、かかる苦境に追込れながらも明治末年から大正初期にかけての社会主義者は、僅かに残された同志達の連絡と微温的な宣伝によって、運動の挽回を計り、時の到るを待っていた。『明治四十三年、赤旗事件、電車事件等の入獄者が続々と出獄した。山川、宇都宮、佐藤は郷里に帰り、森岡は狂死し、西川は改宗した。堺は同志四五人と共に四谷に売文社を起し、文章の代作や著述などに従って居た。売文社は其頃在京の同志が集合する唯一の中心であった。大正元年九月、大杉氏と荒畑氏が「近代思想」と題する無政府主義的の雑誌を発行した。これは主として文芸上、思想上の問題を取扱うに過ぎなかったが、また一面、同志を糾合する重大な任務を果した。この雑誌は大正三年九月まで続き、十月から「平民新聞」として実際的労働運動の機関を以って自ら任じたが、発売禁止の連続の為、それも遂に廃刊した。堺は売文社の機関として「へちまの花」と題する閑文学の小雑誌を発行して居たが、大正四年九月、それを「新社会」と改題し、社会主義運動の一機関紙に供した。「新社会」には初め高畠素之氏が居り、後(大正五年一月以降)山川均氏が現われて、「新社会」の発行所たる売文社は漸く一個の社会主義団体たるかの観を呈した。大正六年一月の総選挙には、山崎今朝彌、吉川守邦、高畠素之の諸氏が選挙委員となって、堺氏を東京市の社会党候補に推薦した。得票二十五。「近代思想」の廃刊後、大杉氏は「文明批評」「労働新聞」などを発刊し、荒畑氏は山川氏と共に「青服」を発刊したが、いづれもサンヂカリズムの主張であった。但し、大杉氏のサンヂカリズムは無政府主義を基礎としたものであり、山川、荒畑のニ氏のはマルクス主義からの発展であった。従ってニ氏は後に堺氏等と共に共産主義の態度に移った。』----(堺利彦氏の『黎明期総説』から)
 社会主義運動に対する支配階級の弾圧と逆宣伝は依然として弛まず、ここしばらくは、社会主義者は官憲との追かけごっこに日を送らなければならない有様であった。しかし、夜はやがて去り、暁の光が窓からさし入るであろう。
 大正三年以降における欧州大戦を契機とするデモクラシー運動と、日本資本主義の新しい発展に促されて台頭した労働運動こそは、この暁の光をもち込んだものである。先づ労働運動の台頭から見よう。
【2006/06/08 00:32 】
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01_01_02_労働階級の躍進
    労働階級の躍進

 欧州大戦は日本資本主義に躍進の機会を与えた。この日本資本主義の新しい発展は、また労働階級の増大を前提とした。我々は面倒でもこれを統計によって見て置かなければならない。
 先ず、資本主義の躍進は、次の内地及び日本経営の会社数とその払込資本額が、逐年増加を示している統計表によって知られよう。

  年次     会社数        払込資本(単位千円)
 大正元年   一三、八八七    一、七五六、六一〇
 大正五年   一八、二一九    ニ、四三四、〇七三
 大正六年   一九、六九六    三、一七一、五六〇
 大正七年   ニ三、〇ニ八    四、七〇七、〇八七
 大正八年   ニ六、ニ八〇    五、九七五、四九七

 次は、こうした増資は労働に対する需要を促し、労働階級の数的増大をもたらすことは勿論である。その傾向を、工場(使用職工十人以上)数及び労働者数の増加の統計によって見れば次の通りである。

  年次      工場数       職工数
 大正元年   一五、一一九   一、〇ニ八、一六五
 大正五年   一九、ニ九九   一、一五七、五四〇
 大正六年   ニ〇、九六五   一、三五四、一九ニ
 大正七年   ニニ、三九一   一、五〇四、七六四
 大正八年   ニ三、八三一   一、四七四、ニ八一

 こうした労働に対する需要の増加は賃金の増加をもたらしたが、しかし一面には、欧州大戦の好景気によって成金が輩出し、その生活は奢侈逸楽を極めたので、未曾有の物価騰貴を来し、労働者の実質賃金は却って減少する結果となった。今試みに、上掲の統計と同期の全国主要都市平均物価指数をその平均賃金指数に対照して示せば、欧州大戦による好況期が、いかに労働階級の生活受難期であったかを知るに足りよう。

 年次      物価指数     賃金指数
 大正元年   一〇〇      一〇〇
 大正五年   一〇九      一〇四
 大正六年   一四五      一ニ〇
 大正七年   ニ〇〇      一五七
 大正八年   ニ三八      ニニ四

 この労働階級の生活受難の統計表は直ちに労働階級の生活擁護のための闘争の展開されるであろうことを予想せしめる。当時、日本の労働階級は、明治年代の労働組合運動からは縁を絶たれて居り、また、社会主義運動の影響の外に立っていたが、この生活受難の事実によって、期せずして団結し罷業に入った。我々が次のストライキ件数並に参加人員数増加の傾向を見るならば思半ばに過ぎるものがあろう。

 年次   ストライキ件数    参加人員数
 大正元年    四九     五、七三六
 大正四年    六四     七、八五ニ
 大正五年   一〇八     八、四一三
 大正六年   三九八    五七、三〇九
 大正七年   四一七    六六、四五七
 大正八年   四九七    六三、一三七

 我々は面倒な上掲の諸統計を順次に一瞥することによって、米騒動前後の労働階級が急テンポで躍進しつつある有様を認めることが出来よう。所が、当時この労働階級の躍進の気運に乗じて日本の労働階級を指導し、労働運動の復活を導いたものは、社会主義者の一団ではなかった。そこには、大正元年、鈴木文治氏等によって組織せられた友愛会を中心とする勢力が、年と共に台頭して行った。友愛会はその綱領に、
 一、我等は互に親睦し一致協力して相愛扶助の目的を貫徹せんことを期す。
 一、我等は公共の理想に従い、見識の開発、徳性の涵養、技術の進歩を図らんことを期す。
 一、我等は共同の力により着実なる方法を以って我等の地位の改善を図らんことを期す。
とあることから見ても明かなる如く、鈴木氏の知識階級としてもつ人道主義的要素と、当時の進歩的学者達の社会改良主義的要素と、更に当時に於ける一部の進歩的資本家の間に流行した労使協調主義的要素の混成児であったが、自然生長的な労働階級の歩調と一致して徐々に勢力を拡大し、殊に大正六年以降のストライキの激増のうちにあって、日本の労働階級の中堅として立った。
 しかし、この友愛会自身は、労働階級の急テンポの躍進が展開されつつあるうちにあっても、尚依然として初期の混成児のイデオロギーから脱却するに至らなかった。大正六年四月、友愛会創立五周年記念演説会の席上、鈴木氏の演説は次の如くいっている。
 『土台たる多数が貧乏なる場合には、その国家は必然的に崩壊の運命をもっている。殷鑑遠からず隣邦ロシアを見よ。・・・然し乍ら僕は国を愛する。故に崩壊を憂い、危険なる思想を嫌うのである。これ僕の常に資本労働の調和を望んで止まない理由である』  こうした立場は、復活期の労働運動を或程度の階級的勢力にまで結成せしめたが、次の瞬間には、労働階級によって清算せられなければならない。
【2006/06/10 23:38 】
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01_01_03_デモクラシーの台頭
     デモクラシーの台頭

 日本におけるデモクラシー運動は、労働階級の躍進を導いて、封建的思想の桎梏から解放し、社会主義的傾向に推し進めた一つの段階ではあったが、しかし、この運動自体は、直接には欧州大戦に参加した日本ブルジョアジーの必要から生れたものである。
 当年の輝けるデモクラシーの戦士吉野作造氏は、彼自身がこの思想を何処から仕入れて来たかに就いて次の如く語る。
『斯う云う雰囲気を抜け出で、私は四十三年四月欧米留学の途に上った。留学三年にあまる幾多の見聞が後年の私の立場の確立に至大の関係あるは勿論だが、就中特に語っておきたいのは、(一)英国に於て親しく上院権限縮小問題の成行を見たこと、(二)墺都維納【ウィーン】に於て生活必需品暴騰に激して起った労働党の一大示威運動の行列に加わり、その秩序整然一糸みだれざるを見て、之でこそ国民大衆の信頼を得るに足るなれと大に感服したこと、(三)一九一二年の白耳義【ベルギー】の大同盟罷業を準備時代から目のあたり見聞し、秩序ある民衆運動の如何に正しくかつ力あるものなるかを痛感せしこと等である。』
そして、如何にしてそれが日本に植え付けられたか、吉野氏は曰う。
『私は大正二年の七月に帰朝した。たとえかの憲政擁護運動なるものが其実まじめな根底を欠くものだとしても、明治と大正との政界は、この時代の移りを境として、実に重大な変異がある。一時寺内内閣の高圧政策に由て自由思想に加えられたる威圧の頗る強烈なるものありとはいえ民間に於ける溌剌たる気運の醞醸は何人の目にも隠し得なかった。而して欧州大戦が之に勃発の好機会を与え遂に今日の時勢を作るに至ったことは今更事新しく論ずるまでもあるまい。』
       -------(以上、吉野氏『民本主義鼓吹時代の回顧』から)
 かかる情勢を前後にして、大正四年五年の交に於て、デモクラシーの論陣は華やかに張られた。就中、大正五年一月『中央公論』誌上に『民本主義の本義を説いて其有終の美を濟【すま】すの途を論ず』という表題の下に発表された吉野氏のデモクラシー提唱は代表的なものとされた。今一度このデモクラシーの内容を、吉野氏の『回顧』によって見れば次の如きものであった。

 一、近代政治は人民の意向を枢軸として連用される輿論【よろん】政治であること。
 二、この輿論政治は形式上人民の多数に依って作られるが、その内容となるべき思想そのものは少数哲人の所産であるから、近代政治も哲人政治の一形態であること。
 三、故に、近代政治に於ては、少数哲人によって創成せられた幾つかの思想を、民衆の決定によって社会的実現に導くものであるから、民意の尊重を最も重要とすること。
 四、今日の立憲代議制度の下では、下院を少数有産階級の独占から救い出して之を完全に多数民衆の利害休戚【きゅうせき】の発現所たらしめるためには、先づ普選の実行並に理想的なる選挙取締規程の攻究を必要とすること。
 五、斯くして後はじめて、政党内閣又は議院内閣は近代政治の傾向に即するものであり、従って大権内閣説の如きは謬論であること。
 六、民意愓達【とうたつ】を期する上からして、貴族院並に枢密院の如き憲法上の諸機関は、稍【やや】もすれば民本政治を歪め勝ちであるから、かかる傾向を排すべきこと。制度によらざるも、軍閥による民本政治に対する牽制の如きは断乎として排すべきこと。等々。

 この様に、デモクラシーの主張は、輿論政治と普通選挙制度とを中心とする一個の政治論であったが、当時の社会はその主張を、在来の高圧政治に反対する主張として簡明直截に受け入れ、支配階級に対する不平不満の捌け口をそこに求めたのであった。所が、このデモクラシーに対して或る種の安易さを求める事情は支配階級の側にもあった。
 欧州大戦が勃発すると、連合国側は、この一戦を以て、『独逸の軍国主義に対するデモクラシーの戦い』であると宣言した。嘗てナポレオンの軍隊が『自由民権』の軍歌に酔わされてラインを渡り、中欧諸国に侵入して新興ブルジョアジーのために尊い血を捧げたのと同様の、歴史のからくりは、欧州大戦の火蓋が切られると同時に、連合国側の民衆に投げかけられたのである。中世に十字軍の聖なる名の下に、殺戮と略奪の歴史の幾頁かが綴られたと同じく、デモクラシーの旗の下に、砲火と毒ガスと、航空船と潜航艇と、幾千万の民衆の血と肉とが、帝国主義ブルジョアジーの饗膳に供せられなければならなかったのである。自分の算盤勘定の命ずるままに連合国側に参加した日本ブルジョアジーも、ここしばらくは、デモクラシーの旗持ちを拒むわけに行かなかった。
 兎に角、欧州大戦とデモクラシー。欧州留学から帰った許りの吉野氏は、この波に乗って民衆の面前に起った。従来官僚の巣窟として定評されて来た帝国大学に立籠る吉野氏のこの提唱は、当時の社会に一大センセーションを捲き起す特殊の作用をなした。当時早稲田大学には、早稲田学徒の信望を一身に集めてデモクラシーを高唱する人々に、大山郁夫、北澤新次郎の諸氏があった。大山氏は吉野氏と相並んで論壇に活躍していたが、後去って関西に下り、大阪朝日新聞社の編集部に立籠った。そこには、主筆鳥居素川氏の下に長谷川如是閑氏を初め多くの新進学者論客が立籠り、デモクラシーを鼓吹していた。
【2006/06/11 11:44 】
| 「学生社会運動史」 菊川忠雄 1947 | コメント(-) | トラックバック(-) |
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